日常(第二話) RenewalVer.





「ん〜〜〜っ」
布団から上体を起して、大きなあくびをする。
多分、随分と間抜け顔だろうとは思うけれども、コレばっかりはどうしようもない。
枕もとのデジタル時計を見ると、7時を少し回ったぐらいだった。
もうそろそろ、支度を始めたほうがいい時間帯だ。
「起きるか」
もぞもぞと、布団から這い出て、カーテンを一気に開ける。
シャッという小気味いい音が響いた。
「っ!」
思わず、目を手で覆った。
太陽が明るすぎて、目が痛い。
7時とはいえども、さすが真夏の太陽だと思う。
もう、結構な高さまで上がってきているから、そのぶんだけ眩しい。
しばらくして、目が明るさに慣れ始めると、辺りが見え出した。
いつも通り天気はよくて、真っ青な空が広がっている。
セミの鳴き声も耳に心地よい。
今日も、いい日になりそうだ。



適当に着替えて、階段を下りる。
リビングに入り、カーテンを開け、窓を全開にし、扇風機の電源を入れてから、FMラジオのスイッチを入れた。
エアコンではなく、扇風機の電源を入れたのは、エアコンが無くてもすごせる気候だから。
東京のほうは、夏辛いらしいけど、こっちは田舎。
緑も多いし、風の通りもいいから、エアコンは無くても何とかなる。
まあ、あるにはあるんだけど。
メンテナンスしといたほうがいいかな?
でも、冬は地獄と言っても過言ではない。
というのも雪がすごい。
車は四駆じゃないとまともに動かないし、路面は凍るし、それに庭先でも30cm以上積もるものだから、雪かきが辛い。
それに姉さんは、雪かきをしているこっちを見て、にこにこと笑みを浮かべながら、がんばってね、と言うだけであまり手伝ってくれない。
確か、去年は雪だるま作ってたっけか。
そんな事を考えながら、庭先を見る。
今は雪の面影なんてあるわけもなく、芝生が緑色に萌えている。
「さてと・・・」
キッチンに入って、朝食の支度を始める。
朝食の支度をするのは、俺の日課。
姉さんは作ってる暇が無いから、という理由から始めたんだっけか。
おかげで料理の腕も上達した、と思う。
水道で手を洗いながら、景色を眺める。
前回になった窓の向こうに見えるのは、田舎だから出来る広い庭。
その向こう側には湖があり、光を反射してきらきらと煌いている。
いつもと変わらない光景だけど、改めて見ると、いい風景だなぁ、と思ってしまう。



FMラジオから流れるBGMに耳を傾けながら、朝食を作っていると、姉さんがリビングに入ってきた。
薄ピンクで、チェック模様のパジャマ姿のままで。
まだ寝ぼけ眼をしている事からも、起きがけだという事のが分かる。
「おはよう。・・・めずらしいな、こんなに早く起きるなんて。雪でも降るんじゃないのか?」
口元をゆがめ、少し皮肉をこめて言ってみる。
まだ7時半にもなっていない。
寝ぼすけ姉さんがこの時間帯に起きてくるのは珍しい。
「一言余計なのよっ」
姉さんは不満そうに頬をぷくっ、と膨らましてそう言った。
「へーへー」
生返事をしてから、朝食作りを再開する。
すると、姉さんがふらふらとこっちに近づいてきた。
顔を上げて、姉さんを見る。
「ん?どした?」
「ねえねえ、今日どこかに連れてってくれないかなぁ」
は?
何を唐突に。
「今日、仕事じゃねえのか?」
思わずそう聞き返す。
てっきり今日も仕事かと思ってた。
「今日から休みって、カレンダーにも書いてたし、昨日も言ったよ。覚えてないのぉ?」
ん〜・・・
首をひねって昨日の会話を思い出してみるものの、どうもそんな言葉が出てこない。
「本当に言ったのかぁ?」
半信半疑の面持ちで姉さんの顔を見てみるけど、姉さんはいたって真顔。
嘘をついてる顔はしていない。
「いつ?」
「夕方」
「俺は何してた?」
「ん〜っと、本読んでた」
「・・・」
「ぶつぶつ独り言を言ってたよ」
「・・・あのなぁ」
分かった分かった。どうして記憶が無いのか。
「?」
首をかしげる姉さん。
「勉強してたんだよ。んな時に言われても気づかんって」
「え〜〜」
え〜、じゃないわっ。
ったく。
・・・今日から姉さんは休みなのか。
毎年恒例の、盆の時期にある、2週間ぐらいの休養期間。
話によると、仕事も大して舞い込んでこないので、超長期休暇が取れるらしい。
ちなみに、給料は半額近くにまで落ち込む、と姉さんは言っていた。
「で、どこに行きたい訳?」
とにかく、姉さんが(一応)言っていた事は分かったので、その件については諦めて話を聞く。
「えっとね〜・・・」
顎の下に手を当て、首を傾けつつ考え始める姉さん。
何にも考えてなかったのか?
「ん〜とね・・・あ、そうだ。おき―」
「沖縄とか言うなよ」
と、言うと、姉さんが笑顔のまま固まった。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
動きが無い、妙な沈黙が流れる。
聞こえてくるFMラジオのBGMだけが、時の流れを感じさせる。
「・・・」
「え〜、ダメなの?どこでもいいって言ったのに」
不動体から動体に戻った姉さんが言った。
言ってねえ。
「せっかくの休みなんだし、数泊してもいいから遠出しよ・・・・・・ね?」
ね?と言って、さりげなく上目使いで俺を見てくる姉さん。
(多分)故意でもなく、(多分)自然と、そういう仕草をしてくる。
こんなところで、どうも姉さんにはかなわないなぁ、といつも思ってしまう。
「彼氏とかはいないの?」
彼氏とか好きな人とかいれば、その人と行けばいい。
別に弟の俺とどこかに出かけんでもいいような気がする。
すると、姉さんは肩を軽く落としてた。
「残念ながらいないの」
「暇人」
味噌汁に味噌を溶かしながら、ぼそっ、と聞こえるか聞こえないかぐらいで言う。
「う、うるさいわねー。仕方が無いでしょっ。それに卓はどうなのよ?彼女はいないのっ?」
「いねぇよ。姉さんだけで手一杯だ。ちなみに言っておくと俺は暇じゃない。こうやって姉さんのために朝食を作ってるから」
実際、姉さんと話をしている間も、わたわたと手やらフライパンやらなべやらを動かしている。
「なんか納得いかないなぁ」
姉さんはそう言って、不服そうな顔をした。
「ほら、そろそろ出来上がるから、皿でも出してくれ」
「はぁい」



・・・
・・・・・・
「私、海見たいなぁ」
朝食を食べ終り、皿を洗っているときに、カウンターに座った姉さんが夢を見るようにポツリ、とそう言った。
「却下」
即答。
ここは内陸県のど真ん中。
沿岸の海まで出るには数時間・・・だいたい、4,5時間はかかるだろう。
んな、急に今日出かけよう、って言って行ける距離じゃない。
「え〜、もう私5年ぐらい行ってないんだよ〜。いいじゃない連れてってくれても」
姉さんはそう言って唇を尖らせた。
説得力のある意見だが、
「日帰りで行ける距離じゃないから無理」
そう言って、一蹴する。
「だからぁ、数泊してもいいから〜」
子どもか?
「・・・」
「・・・」
かちゃかちゃ、と皿を鳴らしながら黙々と皿を片付ける。
「じゃあ、考えとくよ」
あいまいに言葉を濁す。
ここは保留が一番。
んな、4,5時間も車の運転はしたくない。
それにしても海かぁ、そういえばこの前新しい水着買った、って言ってたよな。
姉さんの体つきをさりげなく見てみる。
「・・・?・・・卓?」
姉さんの体型なら、どんな水着も合うような気がする。
南の海辺で見てみたい気もするけど・・・なぁ?
遠いのよ。
「ん〜・・・」
腕を組んで考え込んでみても、なかなか決心がつかない。
「今日が無理だったら、明日にでも行かない?何泊かしてさぁ。メロン買ってあげるからあ」
「ん〜・・・」
メロンと言う言葉に釣られて考えてしまう俺。
悩むなよ。
別に海に行きたくないわけじゃない。
むしろ行きたいし、姉さんの水着だって見てみたい。
姉さんが喜ぶ顔を見せてくれるんだったら、長距離の車の運転だって苦じゃない。
「私一人で行っていいの?」
「あ・・・」
言葉が詰まった。
姉さんを一人で旅行に行かせるわけにはいかない。
ただでさえ危なっかしくて、おっきな街に出ればしょっちゅう声がかかる姉さんなのに。
それに方向音痴だし。
一人で行かせたら、絶対に『迷った〜、助けてー』なんてくるに決まってる。
下手をしたら、太平洋側じゃなくて、日本海側に行ってるかもしれない。
「ねぇ、卓ぅ」
・・・・・・行くか。
いい思い出になるだろうし。
俺だって来年は就職しているはず。
夏休みが姉さん並に取れるとは限らない。
顔を上げると、そこには神妙な面持ちをした姉さんがいた。
「しょうがないなぁ・・・・・・行くか?」
「うんっ!」



宿泊先、旅行先については、クラスメイトの情報通に調べてもらうことになった。
土産ぐらい買ってこいよ、なんて言われたけど、そのぐらいでいい宿を調べてもらえるなら安いものだ。
それに、彼なら変な場所は勧めてこないだろうし。
まあ、ちょっと風変わりな奴ではあるけども。



それにしても旅行か、本当に久しぶりだ。
少なくともここ5年はどこにも行っていない。
心の中に、幼少時代味わった遠足の前日のような気持ちが湧いてくる。
心が躍っている、とでも言うのだろうか。
でも、昔はただ単にいつもは行けなかった場所に行けるのが楽しみだったけど、今は違う。
今回は姉さんと行くんだ。
二人っきりの旅行だ。
それが、心の弾みに拍車をかけているような気がする。
なぜかはよく分からないけど。
「ん〜・・・」
縁側のある和室にぐてー、っと横になって遠くの空をみる。
ゆっくりと止まっているかのように動く雲。
鳴き続けるセミの声。
「・・・」
のどかだねぇ。

みーんみんみんみんみーん

みーんみんみんみーん

「・・・」
明日までに、銀行から金おろして、洗車して、車のチェックして、荷物そろえて・・・
案外やることが多いな・・・
まあでも、なんとかなるか。



正午までは姉さんと街に買出しに行くことになって、旅行に必要なものを買ってきた。
それと、お金を下ろすついでに銀行口座をのぞいてきたけど、結構な額が貯まっていて驚いてしまった。
さすが日々、何気に節約をしているだけある、と思った。
午後は、炎天下の中、車を洗うことになった。
帽子をかぶりつつ洗車をしていると、ちょうど終わる頃あたりに電話がかかってきた。

プルルル プルルル プルルル・・・

『卓ぅ〜、電話だよ〜』
2階の姉さんの部屋当りから間延びしたそんな声が聞こえてくる。
「出てくれ〜」
リビングにあるんだから、外で洗車してる俺に言わないで、自分出でりゃあいいのに。
『今、着替え中なの〜』
そんな爆弾発言とともに、間延びした声が再び聞こえてくる。
あ、着替え中すか。

プルルル プルルル

「ん〜・・・・・・」

プルルル プルルル

「むー・・・・・・」

プルルル プルルル

「あ」
やべ、電話にでないと。
危なく危険な妄想を暴走させるところだった。
なに、姉さんの全裸思い浮かべてんだ俺は!バカか!?
さっきまでの考えを振り払いつつ、リビングに飛び込み、受話器をとるを取る。
「はい、石田です」
・・・・・・
・・・



「どこに行くことになったの?」
夕食も食べ終わり、ゆっくりと紅茶をすすっていると、テーブルの向かい側で、姉さんがにこにこと笑みを浮かべながらそう聞いてきた。
もう、楽しみで楽しみで仕方が無い、といったふうに。
「ん〜、伊豆」
「え?ホントに!?」
「しかも2泊3日な」
「2泊3日!?」
一段と明るくなる笑顔。
不思議とこっちまで嬉しくなってしまう。
「伊豆、伊豆かぁ」
「ああ。ちょっと調べてもらってね、そこになった」
空いている旅館も、海水浴場も全てクラスメイトに調べてもらった。
いいとこらしいぞ、というそいつからのテコ入れもあり、
日が出ているうちに予約も入れてしまった。
姉さんには了承を取らなかったけれど、きっと気に入ってくれる(と思う)。
しかし、なんというか、変なところで役に立つ奴だと思う。
ただ、
『そっかー、義理の姉さんと二人旅かぁ、いいね、憧れるね』
『夏美さん、だっけ?この前見たけど可愛いよな』
と、まあそこまでは分かる。
俺だって、姉さんの事は可愛いと思う。
でも、でもだ。
『土産忘れんなよ〜』
『報告書提出しろよ〜』
『歯磨き忘れんなよ〜』
『水着忘れんなよ〜』
『ガソリン入れとけよ〜』
『朝、ちゃんと起きろよ〜』
『酒飲むなよ〜』
『変な気起すなよ〜』
『襲うなよ〜』
・・・などと切り間際に言うのはどうかと思う。
襲うってなんだよ、襲うって。
「・・・」
ま、いっか。
「ところで、姉さん。準備はもう終わった?」
顔を上げて、姉さんに話しかけたる。
昼間、姉さんがばたばたしてるのを見てたから、そう聞いてみた。
それこそ電話で予約しているときもそうで、上のほうからバタバタと騒音が聞こえてきた。
何やってたんだろ。
というか、何をしたらあそこまでうるさく出来るんだろう。
「うん?準備?終わったよ〜、忘れ物ないようにね」
「へぇ、関心関心」
「む。それどういう意味?」
口を不満げに尖らせて怒った顔で聞いてくる姉さん。
でも、本当に怒ってるって言う訳じゃなくて、なんというか、楽しんでる気がする。
「いや別に」
何もなかったように、さらりと言う。
姉さんは朝弱いし、なんとなく、”モタモタしている感”があるから、まだ準備している途中かと思った。
まあ、別にそんなに準備とかが遅いわけでもないんだけど、なんとなく”モタモタ感”がある。
まあ、そこが可愛らしくもあるんだけど。
・・・・・・
・・・・・・・・
「え〜、何で笑うのぉ?」
「ん?」
笑ってたか?
どうやら、頬が緩んでにやけていたらしい。
慌てて、頬を叩き、顔を引き締める。
「いや、なんでもない」
なんでもなくは無いんだけど。
「人の顔見てニヤニヤと笑う卓は、準備終わったの?」
楽しそうな表情で返された。
「ん?俺か?」
「うん」
「ん〜、実はまだ」
昼間は車洗ったり、予約いれたりといろいろと忙しかったし、準備してる暇が無かった。
「わ、人に言ってて自分はいいの〜?」
「俺はすぐ終わるんだよ。それこそ30分もあれば。姉さんは3時間ちかくバタバタしてたろ?」
「う〜、そうだけど・・・」
肩をすくめて縮こまる姉さん。
なんというか、リアクションでかいなぁ。
「まあ、今日は本読んでないで、早く寝ろよ。」
明日は早い、って訳ではないけれど、旅行と言うものは案外疲れるものだ。
少しでも多くの睡眠時間を取っておいたほうがいいだろう。
「はぁ〜い」
そんな、間延びした返事が返ってきた。
大丈夫か?



出発日当日は快晴。
雲ひとつ無い、と言うわけではないけれど、晴れ渡っている。
昨日はゆっくりと眠れたし、体調もずいぶんといい。
いい一日になりそうだ。
「まあ、こんなもんでいいかな」
荷物の最終確認をして、チャックを閉める。
一般的な旅行バックに荷物は全て収まった。むしろ、まだ入る余裕がある。
そんなに大して持っていくものはないし、重いものと言えばカメラとパソコンぐらいだ。
さて、姉さんのほうは大丈夫かな?
昨日のうちに準備は済ませたといっておいたけれども、どうも気になる。
荷物を玄関に運び、部屋に戻ってきてぼけーっとしてると、俺の部屋に姉さんが顔を出してきた。
「卓」
最初は体の半分をドアからのぞくように出して、それから遠慮がちに部屋に入ってくる。
白のワンピースに身を包んだ姉さんは、とてもじゃないけど20歳を超えているようには見えなかった。
すごく可愛くて、可愛い。
口が半開きになりそうなのを思わずこらえる。
「ん、どうした?」
昨日と全く同じで、姉さんは楽しそうな表情をして俺のほうを見ている。
「荷物運んでくれる?」
「あ。はいはい、お嬢様」
何かと思ったら、荷物運びか。
自分で運べよ、と思いつつも運んでしまう俺。
意志弱いな〜。
階段を下りて、俺が先ほど置いた荷物の隣に置く。
「車に運んどくから、姉さんは戸締り頼むよ」
「うん」
姉さんはそう肯くと、スリッパを軽快に鳴らして階段をぱたぱたと上がっていった。



親父から譲り受けた車、というか親父が置いていった車に乗り込む。
スポーツタイプの車で、それなりに気に入っていたりする。
荷物はもうすでにトランクに詰め込んだ。
あとは、姉さんが出かける前のチェックを済ませて家から出てくるのを待つだけ。
それまでに、やっておくことをやっておかなくてはならない。
まず、エンジンをかけて、エアコンのスイッチを入れた。
徐々に車内が適温になっていく。
カーナビの電源を入れて、目的地を入力する。
電話番号を入れるだけで出てくるなんて、よく考えたらすごいもんだ。
決定ボタンを押すと、しばらくして、伊豆までのルートが画面上に赤のラインで表示された。
最短コースでも5時間の距離。
「・・・遠いなぁ」
縮尺を小さくすると、画面から目的地がはみ出してしまう。
いやー、睡眠時間長く取っておいてよかったと思う。
車内がちょうどいい温度になるころ、姉さんが家から出てくるのが見えた。
鍵を閉めてから、いつもと同じようにぱたぱたとしながら車に駆け寄ってきた。
「おまたせっ」
助手席に乗り込んだ姉さんの腕の中には、うさぎの人形が抱かれていた。
持ってくのか、それ。
いっつも枕元にあるけど。
「鍵閉めたか?」
「閉めたよー」
「じゃあ、行くか?」
助手席に乗っている姉さんにそう尋ねる。
今更後戻りなんか出来るわけないけど、確認のために聞く。
「うんっ。行こっ」
間空けず、姉さんは満面の笑みを浮かべてうなずいた。
俺は、そのテンションに押されるようにアクセルを踏み込んだ。



しばらく走り、中央自動車道に乗った。
あとは、しばらく退屈なロングランがはじまる。
飛ばしたってこれじゃあ燃費が悪くなるだけで、ろくなことが無い。
どっちにしろ、向こうにつくころにはガソリンが空になってるはずだけど。
「ねえねえ、今回泊まる旅館ってどんなところなのかなぁ?」
助手席に座っている姉さんがそう聞いてきた。
相変わらずうさぎの人形を抱いている。
「さあ、言ったこと無いから分からないけど、いいところらしい」
うん、たぶん。
「海の近くにあるんでしょ?」
「ああ」
奴もそう言ってたし、カーナビの目的地も海の近くになっている。
「海、綺麗だろうねぇ。日の入り見れるかなぁ」
「見れると思うよ。海に沈む太陽をね」
「なんか、ロマンチック〜」
そう言った姉さんの横顔をちらっと見ると、夢を見るように目を爛々と輝かせていた。
乙女チックなやつめ。何歳だよ、もう。
まあ、なんとなく分かるけどさ。・・・・・・多分。
「ドラマのワンシーンみたいだよね」
あ〜、恋人たちが夕焼けの空の下熱い抱擁を交わして、どうこう、というやつか?
んなベタな。
ちょっとありきたりすぎるんじゃないかなぁ、姉さん。
そう言おうとは思ったけれど、夢を壊すようなことをしたくないから、横目で姉さんを見るだけにした。
「・・・」
「ん・・・」
ふと考え、
「・・・」
「ふふふっ」
ふと笑い、
「・・・」
「いいなぁ」
ふと呟く。
「・・・」
姉さんはさっきから、しきりに考え込むように首をひねっては、にこにことした笑みを浮かべ、呟き、また考え込む、という動作を繰り返している。
なんと声をかけていいのか分からない。
漫画だったら、頬に冷や汗が流れるシーンだろう。
「んなに、重要かねぇ」
どっかに飛んでいっている姉さんはさて置き、そうぼそりと呟く。
きっとどっかに飛んでいってるから、聞こえてはいないはずだ。
「重要だよ」
「あ」
てっきりあっちの世界に飛んで行ってるもんだと思ったら、案外近くにいたらしい。普通に返された。
油断もすきも無い。
「あ、そすか」
「ところで卓〜、お金のほう大丈夫なの?」
「ん?と言うと?」
「だって〜、家にそんなお金あったかなぁ、って」
姉さんは不思議そうな感じでそう言った。
まあ、たしかに普通に考えればそうだ。
2泊3日で旅行するとなると、それなりの金額がかかる。
金の支出収入を管理していない姉さんには、どこから金が出てきているのか分からないはずだ。
お金の管理してしまってるのは俺だし。
「親父たちから、5万円の仕送りあるのは知ってる?」
「うん、それは前に聞いた〜、それで学費とか払えって」
「でだ、姉さんからも食費とか、生活費とか出してもらってるよな?」
「うん、私の使う分以外は全部卓に渡してるよ」
「だな。俺もちゃんと受け取ってるし」
「うんうん」
こくこく、と首を縦に振って肯定する姉さん。
「ところで、生活していくうえで結構な割合を占めるのってなんだかわかるか?」
「え?・・・しょ、食費かなぁ?」
姉さんは少し考えるように視線を宙に浮かせた後、そう言った。
今日はめずらしく冴えてるな、姉さん。
「そう。大当たり。で、飯作ってるのは誰?」
「卓」
「そう。つまり、効率的に食費を減らせれば、それなりのものが手元に残るわけだ。で、今回はそれを使って旅行。分かる?」
「あ〜・・・」

ぱちん

姉さんが分かった、というように手を叩き、肯いた。
うむ、分かればよろしい。
「あ!つまりへそくりだぁ」
む。随分な言い方。
貯めた分は銀行に預けてんだぞ。
たんす貯金じゃないんだから。
「そうだなぁ、卓に渡すお金へらそっかなぁ」
ちらりと視線を移すと、姉さんは、小悪魔のような意地の悪そうな笑顔をしていた。
「あのなぁ、姉さんとか俺が事故ったり、急な出費があったときのために貯めてんだぞ?分かってるか?」
顔をしかめて、姉さんを見る。
ほんとに呆れるわ。
突然、テレビが壊れたり、車が壊れたりするかもしれなし、俺が怪我をして入院するかもしれない。
どこで、一体どういう形で札束が空に飛んでいくかは分からない。
だから、常に蓄えはあったほうがいいと、俺は思う。
「う〜、じゃあ仕方ないか〜」
姉さんは残念そうに肩をすくめた。
「別に使っても構わないのに」
「え〜、でも・・・」
・・・
・・・・・・
俺と、姉さんとの二人旅はそんな感じで進んでいった。



目的地に着いたのは、午後の4時ごろだった。
途中のサービスエリアとか、道の駅で道草をしてしまった為、かなり予定をオーバーしてしまった。
けれど、それなりに楽しかったことも否定できないから、無駄だったとは言えないと思う。
「伊豆だ〜、伊豆!」
そう姉さんが歓声を上げた。
元気なやつめ、と恨めしそうに姉さんを見る。
はぁ、とため息が出た。
とにかく疲れた。ここまで長距離走ったのは初めてだったし、事故を起こすわけにも行かないから、気を使っていたらしい。
それに比べて、姉さんは結構な時間寝てた。
助手席でうさぎの人形を抱き、どことなく嬉しげな寝顔をしながら寝るものだから、暇でも暇でも姉さんを起こせなかった。
「やっときた・・・」
目的地と思われる旅館の駐車場に車を止める。
「ん?」
十数台をとめられると思われる駐車場には、まったく車が止まっていなかった。
えらく客が少ないな・・・
「わー!海が見えるよ〜。・・・ほらほら、卓!」
姉さんは跳ねるようにはしゃぎ、海のほうを指差した。
俺もその指先を追う。
展望台のように開けた駐車場から太平洋が見えていた。
わずかに赤みを帯び、傾き始めた太陽が、海面をきらきらと輝かせている。
海はだいたいここから200mぐらい先だろうか。
旅館が高いところにあるから、下のほうに海が見える。
「やっぱり、海って大きいんだねぇ」
「ああ、だな」
海のほうから振り返ると、そこには木造2階建てのあまり大きいとはいえない旅館が建っていた。
どことなく風情を感じさせる。
「・・・・・・チェックインしてからそこいら見てみるか?」
「うん。そだね」



「どちらさんからの紹介ですか?」
フロントでチェックインを済まし、非常口やらの説明を一通り受け終わると、女将さんがニコニコとした笑顔でそう聞いてきた。
「ええ、まあ、そんなところです」
まあ、実際そのようなものだ。
やつは一体どこから情報を仕入れてきたのかは分からないけど。
「うちの旅館はあんまり大きくないですし、有名でもないですから、あんまり一見さんは来ないんですよ。なので、珍しいなぁ、と思いましてね」
30を少し越えたぐらいに見える若い女将さんは、こちらを振り返ると、にこっと笑った。
ほんとにやつはいったいどこからこの旅館の情報を調べたんだ?
両側を部屋に囲まれた廊下を、女将さんにつづき歩く。
白熱電球の温かい光が廊下を照らし出している。
「でも、有名じゃないからって、悪いわけじゃないですよ。露天風呂からは海が一望できますし、料理も新鮮なものをお届けできますよ」
「じゃあ、夕食楽しみにしてますね」
隣を歩いていた姉さんがそう言うと、女将さんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「はい、ぜひ」
「ところで、女将さん」
「はい?なんですか?」
女将さんが笑顔で振り返る。
俺は、ここに来てたときから気になっていたことを口にすることにした。
「駐車場、空でしたけど、他にお客はいないんですか?」
「はい。本日はお二人方だけですよ。まだお盆前ですし、平日ですからね」
うむ、たしかにそう考えれば当たり前だ。
「でも、めずらしいんですよ。1組しか入らないのは」
「へぇ、そうなんですか」
「ええ・・・あ、着きましたよ。ここのお部屋になります」
話をしているうちに着いたらしい。
女将さんが俺たちより一歩先にドアを開ける。
「他のお客さんもいませんから、南側の部屋にしておきましたよ」
「ありがとうございます、女将さん」
「いえいえ、では何か用があればフロントにお電話下さい」
女将さんは最後に、失礼します、と言って今来た廊下を引き返していった。
随分と若い女将さんもいるもんなんだなぁ。
それに結構美人だった。
「わー、見て見て、卓!綺麗な海〜」
歓声に気付き、顔を姉さんのほうに向ける。
姉さんは、いつの間にか窓を開けて外を見ていた。
こういうときだけは、いつもいつも素早いと思う。
「落ちるなよ」
そう言いつつ、姉さんの荷物と俺の荷物を、どかっと畳の上に置く。
あー、重かった。
「そう簡単に落ちるものですか」
姉さんはこちらを振り返って、顔を膨らませた。
けど、ものすごく楽しく、嬉しそうな顔をしている。
膨らんだ顔の中に笑顔を内包している、と言った感じだ。
「ねえねえ、卓」
バックをあけて、荷物を取り出していると、姉さんが俺を呼んだ。
「日の入りまで時間があるみたいだから、海に行ってみない?」
まだ5時にもなっていない。
夕食は7時ごろだと女将さんは言っていたから、まだまだ時間には余裕がある。
「じゃあ、外行くか」
「うん、行こ行こ」



部屋に戻ってくると、ちょうど7時になる頃合だった。
それにしても、太陽が海に沈むという光景は本当にすばらしかった。
茜色で、綺麗で、なんという言葉にすればいいのか。
それぐらい、いい光景だった。
姉さんもなにか感慨深そうに見つめていた。
「あー、寝るかな俺は」
テーブルの横にある座布団に腰を下ろして、テーブルに突っ伏し、ぼやくように言う。
ただでさえ疲れてるのに、トータル1km近く歩かされ、疲労分子がさらに増殖した。
眠くは無いけど、疲れが・・・
「えー、だめだめ。せっかくの旅行なんだからっ」
窓際にある椅子に座っていた姉さんは、不服そうにそう言った。
そして、机に突っ伏した俺の背後に来ると、肩をぐらぐらと揺すってきた。
「あ〜、あ〜、あ〜、あ〜」
ゆれるゆれる。
力を入れてないから、頭がぐらんぐらん動く。
「寝ないでね〜」
どことなく嬉しそうにそう言って、姉さんは手を動かすのを止めた。
「あー、さらに眠くなったな。ありがとう姉さん」
嫌味っぽくにそう言って、両手を伸ばしさらに突っ伏す。
冷たいテーブルがなんとも心地よい。
「む〜・・・じゃあ、マッサージしてあげる」
しばしの間のあと、姉さんはそう言った。
ん〜、心遣いは嬉しいがマッサージをしてもらったら多分、さらに眠くなると思う。
そんなことを考えているうちに、姉さんは俺の肩を指圧しはじめた。
ぐぐぐ、とくる圧力がたまらない。
「おお、なかなかいいね」
「でしょでしょ?」
嬉しそうに言って、さらに続けてくれる。
でもやっぱり女性で、ソフトな感じがする。
「肩こってるよ〜、お兄さん」
なんだそりゃ、と心の中で突っ込みを入れる。
どっかのマッサージ師のおじさんですか?
「まあ、最近いろいろとあったものでね。わがままな姉さんを持つと大変ですよ」
「・・・」
む、と頬を膨らます姉さんの顔がすぐに目に浮かんだ。
急に指に力が入る。
「い、いで・・・・・・でも、いい姉さんなんですけどね」
「あ・・・」
姉さんの指から力が抜けて、手の動きがぱたっと止まった。
「・・・」
「・・・」
ん?
動き出すのを待つものの、なかなか動かない。
後ろを振り返ると、すこし気の抜けた姉さんがいた。
「・・・何、止まってんだ?」
そう言うと、姉さんは、我に返えったようにはっとした。
「え?・・・あ、ううん、なんでもない。なんでもない。ほらぁ、前向いてよ」
「・・・」
一瞬だけ、姉さんと目が会う。
照れたように慌てる姉さんを見て、俺は黙って前を向いた。
なんか、ほんとに胸に来るものがある。
・・・
「可愛いなぁ、姉さん」
心の中で言ったつもりが、気がついたら口から出てしまっていた。
あー・・・
「あー、もう、バカバカっ!バカにしてるの!?」
ぽかぽかぽか、と頭を連続で叩かれる。
力を抜いて叩いてくれているとはいえ、連続でくるとそれなりに厳しい。
「ばか、止めろって」
「ばか、ばか!」
なんというか、なんともいえない。
「すみません〜、お夕食おもちしました」
女将さんの声が聞こえた。
「「あ」」
入り口のほうを見たまま、モーションが停止してしまう。
「よろしいですか?」
「「あ、はい」」
俺と姉さんの声が綺麗にダブった。
かちゃ、とドアが開かれ、女将さんが部屋に入ってくる。
あわてて俺から離れる、姉さん。
それを見た女将さんが、覚ったかのように手を叩いた。
「痴話喧嘩ですか〜、いいですねえ」
ニコニコとした笑顔でそんなことをさらりと言ってくる女将さん。
「あ、う、そんなのじゃないですよ。そんなのじゃ」
両手を左右に振って、必死になって否定する姉さん。
なんか、悲しい。
「またまた〜、いいんですよ否定しなくても」
「あ、あの・・・」
「今、お夕食お持ちしますので〜」
確信犯的に笑顔を崩さないままそう言うと、女将さんは廊下に出て行った。
姉さん、反撃するタイミングなし。
女将さん、今までいろんな人を突っついてきたのかな・・・



夕食はとても豪華なものだった。
自分たちの家のあたりでは、高くて食べられないようなものもでてきて、圧倒された。
一品一品女将さんからの説明も加わり、勉強になったり、とてもいい食事だったと思う。
姉さんも、俺も出されたものを全てたいらげたし。
「あー、美味しかった〜」
「だねー」
「そうですか。それはよかったです」
女将さんは嬉しそうにそう言った。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
食器などを片付け終わった女将さんが、ご丁寧にもお茶をいれてくれる。
細かい心遣いがありがたい。
「あ、お風呂のほうは24時間は入れますので、ご自由にお使いくださいね」
「あ、はい」
姉さんがお茶を一口すすってから、そう答えた。
「今日のお客さんはお二人さんだけですからねぇ、いやらしい事しても大丈夫ですよ」
よりいっそう、楽しそうな笑顔を浮かべながら女将さんが言った。
「ぐっ・・・!」
思わぬ攻撃に、お茶を噴出しそうになる。
あ!お、お茶が喉に・・・!
咽る咽る。
「あらあら、大丈夫ですか?」
穏やかな口調で、そう言う女将さん。
あんたのせいだ。あんたの。
「い、いや、そ、そんなこと、しないですよ!」
咽ながら姉さんの顔を見ると、姉さんは傍から見ても分かるぐらい、顔を真っ赤にして否定していた。
「したくないんですか〜?せっかくの旅行なんでしょ?」
女将さんが意地悪そうな笑みを浮かべそう聞き返す。
「え・・・あ、う・・・そ、それは・・・」
姉さんは徐々に縮こまるように首をすくめて、咽ている俺のほうをみた。
視線が合う。
「・・・」
「あぅ」
姉さんが小さく呻いた。
そして、さらに赤くなったような気がした。
「初々しいですね〜」
女将さんが俺と姉さんの反応を見て、にこやかに笑みを浮かべる。
「アレは、そこの引き出しに入ってますので、好きなぐらい使ってくださいね」
1ダース入ってますので、と女将さんは付け加えた。
そして、目標は全部消費ですよ、とも言った。
「・・・」
「ではでは、いい一晩をお過ごしくださいね」
女将さんは最後にそう言うと、咽る俺と、顔を赤く染めた姉さんを置いて、流れるような動作で風のように部屋から出て行った。
まるで台風のような女将さんが出て行った後は、凪のように静かになった空気だけが残される。
「あ〜・・・」
なんと言っていいのか分からず、黙り込んでしまう。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
ちらりと姉さんを見ると、視線が合った。
赤くなった姉さんに、どきっ、としてしまい、思わず視線をはずしてしまう。
「・・・」
「・・・」
そういうやり取りを数回繰り返した後、俺ははた、と気がついた。
「ね、姉さん。なんで旧姓でサインしたの?」
「えっ?」
姉さんは、チェックインするとき旧姓でサインを書いていた。
つまり、俺の石田とは違う苗字で。
だから、女将さんは俺と姉さんが姉弟だとは思ってないはずだ。
「え、えっとね、そ、それはぁ・・・」
俺のほうを窺うように、ちらちらと見ては気まずそうにそらし、また見てはそらす。
そんな動作を赤い頬のままで、数回繰り返す姉さん。
「な、なんとなくよ。なんとなく!」
オーバーなくらいに両手を左右に振って、なんとなく、と言うことを強調する。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「あぅ・・・」
姉さんが気まずそうに呻いた。
なんとも言えない空気が漂う。
全開に開けられた窓から、潮の香りの海風が部屋に入ってきた。
遠くから、ざざぁ、ざざぁ、という波の音がかすかに聞こえてくる。
「・・・」
「・・・」
き、気まずい。
「あ、俺、温泉入ってくる」
俺は浴衣を片手に、鬼神の如く部屋から走りだした。



「女将さんも言うこと厳しいな」
廊下を歩きながら、そんな事を呟く。
必要以上の明かりが付いていない廊下は、旅館独特の雰囲気が漂っている。
そんな中をスリッパの音を立てて歩く。
「・・・」
本当にどういうつもりなんだろう。
姉さんのさっきの態度、どう見ても俺を意識してくれてるとしか思えなかった。
そりゃあ、俺だって、一応は男だし、女将さんが言ってたように一晩中暴れてみたいとは思う。
けど、隣にいるのは紛れも無く俺の姉さんで、手なんか出せるわけが無い。
いくら、姉さんが俺の好みだとしても、
「・・・あ」
ふと顔を上げると、大浴場ののれんの前だった。
赤色ののれんに白文字でゆ、と紺色ののれんに白文字でゆ。
まあ、赤いほうには入る気にはならんわな、ジェントルマンとして。
「・・・」
なにがジェントルマンだ。
今夜だって、姉さんが変に挑発してきたら、襲って自分のものにしてしまうかもしれない。
んなんで、ジェントルマンか?
「あー、止めた止めた!」
せっかく300km以上も離れたココまで来てるんだ、んな湿気ててどうするつもりだ。
楽しまないと!
「さあて、とどんな湯ですかね」
そう言って、紺色をくぐった。



「うわ、広っ!」
第一印象がそれ、かなり広い。
しかも、内湯の外には、露天もあるらしい。
うひゃー、これ、ほとんど貸切状態かよ。
広くていいな〜
「けど」
温泉を供給する、水の音しか聞こえない。
静か過ぎる・・・
「誰もいないのがさみしい」
こういうときは、地元のおじさんといろいろと話をしてみたいものなのに。
まあ、これ以上望むのは贅沢と言うものだとは思う。
姉さんと旅行に来れたし、美味い飯は食べれたし、風呂は最高だし。
「・・・ふぅ」
ものすごーく大きい浴槽に一人だけで、ぽつんと入る。
体を大の字にしても、まだ大きく思えるその浴槽。
ちょうどいいと思える湯温が、今日の疲れを癒してくれる。
長旅だったからなぁ。
「ん〜・・・」
天井を見上げて、いろいろと考えてみる。
姉さんと入りたかったなぁ・・・
「あ」
一瞬頭の中に浮かんだ考えを、頭を叩いてリセットする。
なに考えてんだか。
「・・・」
しかし、広い風呂だよな〜、泳ぎたくなる。
誰もいないし、泳ぐか。
と言うわけで、平泳ぎで数分間泳いでみた。
結果、のぼせる寸前の状態になった。
風呂で泳ぐのは止めたほうがいい、と思った。



部屋になかなか戻る気にはなれなくて、しばらく脱衣所で扇風機の風を受けつつ、ぼー、としていた。
といっても、そんな長い時間いても面白いわけじゃない。
姉さん、もう部屋に戻ってきてるかな?
正直、寝てもらってるのが一番助かる。
まあ、部屋行ってみれば分かるか。



「あ、卓」
「ん?」
部屋に戻ると、もうすでに姉さんの姿があった。
窓際の椅子に腰掛け、何かを飲んでいる。
風呂上りなのは俺と同じらしく、浴衣に身を包んでいた。
「何飲んでんだ?」
「へへ、お酒なんだ」
姉さんは得意顔で、チューハイの缶をこちらに見せた。
廊下あたりから買ってきたのか?
でもたしか、姉さんってアルコールに弱いはずじゃ・・・
たしか350ml缶の半分で、もう出来上がり始めるような。
向かい合った椅子の間にあるテーブルには、空いた350ml缶が一本置いてあり、ポテトチップスが開かれている。
で、姉さんの手には2本目のチューハイ。
顔はもう、赤くなってるし。
「ばか、あんまり飲むなって。二日酔いになるぞ」
「ううん今日はいいの」
「ったく」
姉さんと向かい合うように、椅子に座る。
間には、テーブル。
全開にあけられた窓からは、不定期的に風が吹き込んでくる。
「ほら、卓も飲みなよ」
赤い頬をした姉さんは、足元にあったビニール袋からチューハイを取り出し、俺に渡した。
「どこから買ってきた?」
「売店から買ってきました〜。女将さんがアルコールではじけちゃえ!とか言うから」
どうやら、売店からいろいろ買い込んできたようだ。
しかし、相変わらずすさまじい女将さんだな。
カシュ、とプルタップを開けて、チューハイに口をつける。
アルコール取るなんて、久しぶりだ。
「ん〜・・・なかなかくるね」
冷たいから、またいい。
吹き込んでくる風を受けながら、ポテトチップスとチューハイを交互に頂く。
なかなか、贅沢な味わい方だと思う。
静かな旅館で、窓の外を見ながら、ゆっくりとお酒をあおる。
最高じゃないの?
「じゃー、3本目いきまーす」
気がつくと姉さんが3本目の缶を取り出して、高く上げて見せた。
「あ!おい!止めとけって」
姉さんにこれ以上飲ませたら、本当に危ない。
まあ、危ないと言うか、姉さんが明日辛くなるだけなんだけど。
「えー」
えー、じゃない。
「って、もう開けてるし」
時すでに遅し、取り返す前に、もう開けられてた。
「あー、もう。そのぐらいにしとけよ。大変なのは姉さんなんだぞ?」
「はーい。卓さ〜ん」
分かってるのか分かってないのか、気の抜けた返事をする姉さん。
酔っ払いに何を言ってもかなわないとは思うけどさ。
しばしそんな感じで、酔っ払いと戯言を話しながらすごした。



「そういえば、卓って、アルコール強いの〜?」
しばらくすると、姉さんが突然そんな事を聞いてきた。
目が完全に据わっている姉さんは、もうほとんど末期に近いと思われる。
俺はまだ2本目。
いつも以上に、リミッターをかけて飲んでいた。
「普通なんじゃないか?別に強いってわけでもないと思う」
姉さんがただ単に弱すぎるだけで。
でも、日本人の半分ぐらいは、フラッシャーという、アルコールが飲めない人だそうだ。
「じゃあ〜・・・もっと飲んで!飲んで!」
「なんでよ?」
酔っ払った姉さんの瞳を覗き込む。
酒は飲んでも飲まれるな、だぞ?
「・・・」
「ん?どうした?」
「私のこと・・・・・・って」
姉さんは、俯いて、そう小さく言った。
「え?」
聞き取れなくて、再度聞き返す。
すると、姉さんはゆっくりと赤い顔を上げた。
「私のこと襲って・・・卓のものにして・・・私を女にして・・・」
潤んだ瞳でそんな事を言う姉さん。
「あ」
今日は姉さんが女将さんに突っ突かれて、言葉を詰まらす番だったけど、こんどはそれが俺に回ってきたらしい。
姉さんが言っていたことがいまいち理解できず、言葉に詰まる。
それって、どういう・・・
姉さんは椅子から立ち上がると、俺のそばにぺたん、と座り込んだ。
そして、俺の手をそっと握る。
「私って、魅力ないのかな?」
そう言って、姉さんは乾いたように、ははは、と笑った。
いや、そんなことは無い。
姉さんは、本当に魅力的だと思う。
俺なんかの傍に居てくれるのが不思議なくらいだ。
「なんで私を見てくれないの?」
今にもあふれ出しそうな涙を瞳に抱き込み、その切なげな瞳を俺に向ける。
「私・・・卓に抱かれてみたいの・・・私の大好きな人に・・・」
息が詰まりそうになった。
何も言わず、そっと姉さんを抱き寄せる。
アルコールで体が火照っているのがよく分かった。
顔を胸に押し付け、細くて繊細な腕が、しっかりと背中に回される。
「卓ぅ・・・もう離さないで・・・」
「分かったから、泣くなって」
そっと、姉さんの髪をなでる。
髪を染める人が多い中で、まだ黒い艶のある髪を持った姉さん。
俺と会ったとき以降も、遊び人とは遠くかけ離れた存在だった。
常に、俺の先に立っていたような姉さんが、今、俺の胸の中に居る。
なんか、妙な感じがするものだ。
「よっと」
「ひゃっ!」
姉さんが驚いたように短く声を上げた。
それは、俺が姉さんを抱き上げたからだ。
お姫様だっこ、と言われる形になり、赤く火照った姉さんの顔が見える。
布団の上まで運んで、そっと横たえた。
「ほら、姉さんは酔ってんだよ。寝ろって」
姉さんの頭をこつこつと軽く叩きつつ、そんな事を言う。
「あ・・・え?」
きつく目を閉じていた姉さんは驚いたように俺を見た。
てっきり、次の行動に移ると思ったんだろう。
姉さんは、女にして、と言ったけれども、酔っ払った状態での話なんて、どうだかわからな。
「なんだ?どうした?」
「う、うん・・・寝る」
そう言った姉さんは、もぞもぞと布団の中に入っていった。
さっきまで飲んでいたテーブルの上を軽く片付けて、電気を消す。
常夜灯だけがともっているのを確認して、布団の中に入った。
手を頭の後ろで組んで、木目調の天井を見やる。
しかし、いろんなことがあった一日だったなぁ。
女将さんはすさまじい人だったし。
「卓?」
「ん?」
「・・・」
俺が答えると、ごそごそと音がして、突然視界が切れた。
それが何だか分かるには少し時間がかかったけど、姉さんの顔だと言うのが分かった。
姉さんとの距離は30cmあるかないか。
本当にすぐそばに姉さんの顔がある。
「ん」
どうした、と聞く前に唇がふさがれた。
唇に暖かくて、やわらかいものが接触している。
姉さんの唇だ・・・
キスしてるわけだ。
頭の中にぴりっとした電流が流れるのが分かった。
そして、何秒か、数十秒後か曖昧な時間のあと、そっと唇が離れた。
「姉さん・・・」
「わ、私のファーストキスなんだからね」
暗闇で姉さんの表情は良く分からなかったけれど、照れているのが手に取るように分かった。
「実はさ、俺も初めて」
そんなことを告白する。
目の前に姉さんと言う存在が出来てから、周りの女性に興味が持てなくなったような気がする。
だから、彼女も居なかったし、学校が終わればすぐに家に帰ってきた。
姉さんに会いたくて。
今思えば、あの頃から、俺は姉さんに対して特別な思いを抱いていたのかもしれない。
「えへへ、初めてどうしなんだね」
姉さんの言葉に、ああ、と返す。
「お休み、卓」
「お休み、姉さん」
・・・
物音がそれっきり、消える。
それに次いで、すぅー、すぅー、という規則正しい寝息が聞こえてきた。
ほんとに、寝るの早いなぁ。
「・・・」
俺も寝るか。
それにしても、姉さんとキスをしてしまった。
それもこんどは唇に。
柔らかかったし、不思議な感情が胸の奥から涌いてくるのがわかった。
嫌な感じはしなかったし、むしろもっと味わっていたかった。
俺は、やっぱり姉さんのこと好きなんだろうか。
でも、姉さんは、さっきまでの事を覚えているだろうか。
アルコールが入ると、記憶がすぐ飛んでしまう姉さん。
できるなら、残っていてほしいと思う。
ま、明日になれば分かるか。
まぶたを閉じると、アルコールが入ったせいもあり、長距離を運転したせいもあり、あっというまに睡魔が襲ってきて、俺は夢の中へと引きずり込まれた。




日常(第二話) RenewalVer.
完成日 2005/01/11




次話へ

戻る